月まで連れてって

好きなものをブログに書きます。

三日坊主と明太子フランス

もう完全に予想通りというか、非常に自然に三日坊主になっていました。

これはなんというか、いくらなんでも悔しいので、なぜ三日坊主になってしまうのか?をまずは自己分析するところから、今回の記事は進めていきたいと思います。

 

もともと自分が三日坊主の傾向がむちゃくちゃあることは小学生の頃から気づいています。小中高大、宿題1度もまともに出せず叱られ続けた人生ですし、このブログも、更新しようとして、「めんどくせーからええわ」が続いてしまいました。中には、ちょっともう酔っ払って帰ってきてそれどころじゃないとか、遊び疲れてもう即寝するから無理とか、そういうある種しょうがないかなとさっぱり割り切れる理由もありましたが、「これは少し良くなかった原因だな」と思ったものが大きく分けて2つあることに気がつきました。

その話をしていきます。

 

①自分のルールを作りすぎていた

まずは、技術面ではないですが、マインドセットに近い部分の話から始めます。

これは、私が今までに歩んできた三日坊主人生を割とカバーする理論だなと、自分で思っています。
自分ルールって、まあいろいろとあると思うんですが、例えば今回のブログで課していたものは何か思い出すと、簡単に以下が挙げられます。

・タイトルに『番号、分類、固有名詞』を入れる
・出典と画像をふんだんに入れる
・読み手を意識してきちんとオチをつけたり長めに記述する(ここは、後述する②に近い部分もあるかもしれません)

思いつく限りではこんなところですが、実際のところ、私は何かを最初に整理したり、形式を作ったり、それを変えていくようなことは割と好きな方なんだと思います。例えば、部屋の服をかけるハンガーの、この色はスカート、この色はシャツ、であったり、あとは本をジャンルごとにきっちり並べたり。最初はすごく、無意識ではありますが楽しいんだと思いますし、実際ものが整っているのを見るのは好きなので、この性質がルールづくりに生かされているのだと思います。

ただ、私はルールを守り続けるのがとても苦手なのが残念なポイントです。今日は酔っ払って帰ってきたから、シャツはかけないで寝ちゃおう。とか、後で読むからこの本はこっちに今だけ置いちゃおう。とか、そういう一時一時の“イレギュラー”を積み重ねて、少しずつルールが綻んでいきます。そして、加えて残念なのが、私が少しの綻びで、全てが嫌になってしまうこと。歪な完璧主義なのです。少しでもヒビが入ると嫌になるくせに、集中力が続かないのです。カタヌキって遊びご存知ですか?あれめちゃくちゃ苦手です。すぐ嫌になってゴミ箱行きです。

宿題なんかも、計画通りに全然進まなくて、あーもうええわ、もう間に合わん、知らん、くたばれ、という勢いで後回しにし続けていましたし、今回のブログについても、あのルールを守るのには時間が無いな、とか色々イレギュラーな理屈をつけて、ここまで時間がかかりました。(その傾向は所謂ADHDと呼ばれるのでは?というご指摘、おそらく正しいと思いますが、今回はひとまず目を瞑ってください。私の障害については個性と思わせてください)

 

②他人からどう思われるかを気にしていた

しょうもない話ですが、こちらは自分の感情面の話です。

ブログみたいなものを書いている時点で、誰かは必ず批判しますし、誰かにバカにされることも当然なのですが、私の高く聳え立つ、醜悪なプライド山脈が、悪意が踏み入れてくるのを許しませんでした。これは別にブログに限らないことなのです。何かを発信する限りは、誰しもそうですし、なんなら生きているだけで同じようなマイナスの言葉や感情を向けられる機会とは無縁では過ごせません。当然のように、あらゆる人にそれぞれの好みや人となりがあるわけですから、こんな至極当たり前のことは今更議論に値しないと思っています。

しかし、それを理解してなお受け入れる度量がまだまだ私には足りていなかったのです。なるべく、くだらないと思う人が少ない、そんな言葉を書きたい、と思ってしまう自分が今もいます。文章は上手く書こうとするな、といろいろな指南書であったり、著名人のコメントで拝見しますが、その基本ができていなかったのです。私は自分の心の一部を守るために、また別の自分の心の一部を犠牲にしていました。プライドのために自由を売っているわけです。

2020年は、自分のことをただひたすら考える時間がたくさん持てました。目を逸らしていた部分の傷は非常にグロテスクで、直視するには痛みをたくさん伴いました。(蓮コラみたいなものですね) かなり、辛い時期が長かったです。今も続いていますし、これはそういう波なのだと思います。いろんな理由や原因はありますが、そのうちの一つが己のプライドだったと思います。この古く醜い傷に向き合って、傷から目をそらしていくこと以外、この傷の痛みを忘れる術はないと気づきました。見てしまうから、そして弄ってしまうから、傷は治らないわけです。私は傷がある状態を守り続けていました。かさぶたを剥がし続け、血塗れの傷跡を見て、蹲ってどこにも行けない状態に安寧を覚えていました。これが、プライドを守り続けていた、自分の状態であり、その一部が表出していたのが、「他人から見下されるような文章を残したくない」という気持ちのもと、放置し続けたこのブログなんだろうなと思います。

 

①②を踏まえて、結論から言えば、もう私は色々なことをどうでも良く思えるようになりたくなったのです。まだなりきれていないけど、その身軽さに憧れているのです。そして、それを大義名分じみた何も考えていない状態で、さっさと初めてしまいたい。なぜならば人生の時間が短い。少しずつ、強制処置を取っていかないと、忘れっぽい私は言葉を感情を忘れていきます。耐えられません。私はもったいない主義なのです。貧乏性とも言います。生まれた言葉はなるべく全て残しておきたい。誰かに伝えるか自分の中にとどめるかは別として、この感情だけは多分本物です。

②を書いた下に、私は「お目汚しをして失礼いたしました」という文を添えようと思いました。書いてから数秒して、「こいつまた読者に配慮しやがったな」と思ってムカついて消しました。誰か読んでるかも分からんくせに。意味わからんかっこつけすんな。ダサいわ。きっとこういう文章もいずれ恥ずかしいと思う時が来るんだろうな。特にこういう独白のような文章は、恥じらいを強く生みます。

でももうどうでもいいと、自分に思わせます。いつか見返して「そんなこともあったなあ」と思えるように、傷跡からは目を逸らし続けます。その手段は書くこと!何も気にせず、思うがまま書くこと!読み返して恥じらうときのことはどうでもいい、もしかしたらこんな長々書いといてまた途絶えるかもしれないし、私は適宜居もしない読者に気を使うかもしれないけど、気にしていられません。気のままに、好きに、書くだけです。生きているのが辛かったから。言葉が好きだから。好きなもののことが、とにかく好きだから。

というわけで、「私」という言葉を何回使ったか分からない独りよがりの自己分析は終わり、ここから先もずっと、好き勝手ルールご無用天上天下唯我独尊ガチガチ主観の、好きなものについての文章を書きます。どんな文章でも、自分の遺したものとして、苦しみつつ愛していきたいなという言葉で締めて、今日は私の大好きな明太子フランスの話を書いていきたいと思います。

 

 

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パン界は広く、深く、素人が好き勝手いろいろ言うもんではないはずなんですが、誰がなんと言っても明太子フランスをしょっぱパン選手権では絶対シード枠に入れたい。(他のシード枠ももちろん考えたい、コロッケパンとか、チーズパンとか)

まずもって明太子という食品は、万能性が凄すぎる。魚卵を唐辛子とかいろんなものと混ぜてなんかしばらく漬け込んで〜とか、手間がかかってるのかもわからんけど、字面だけでは明らかに珍味寄り。背後に見えるはカップ酒。なのに、かなり美味しいものヒエラルキーで上位に据えられているし、何よりコラボレーション能力がとんでもない。そもそもの地力が強いのは言うまでもなく、ピリ辛という刺激に塩分というDNAを震わせる栄養素がしこたまぶち込まれた魚卵が、米に合わないわけがない。(酒に合うものは米に合うというのは原料が同じことから火を見るよりも明らかです)

そもそも魚卵って、とんでもなくないですか?各生物の命を蔑ろにするつもりはないですが、あんなにたくさんの生命が口に入ることって、想像つかなくないですか?ちりめんじゃこですら、うわ〜生命がたくさんと思う中で、スケトウダラ、あんな大きいサイズになるはずだった可能性をぜ〜んぶ一気に、数えられないくらい食べちゃいます!って、もう進撃の巨人ティーカッププードルに見えちゃうくらい本当はえげつないことなのだと思う。魚卵を食べた時のあのよく分からない、「普通の食べ物ではないな」という感触と、後からやってくる尿酸値の上昇という罰、これは生命を蹂躙し尽くしているという背徳感を帯びた経験にしか、なかなか結びつかないなと思う。なお、この理屈は一寸の虫にも五分の魂理論がベースになっています。

こんな激バッドな出自のくせに、明太子はハローキティよりコラボが上手い。特に濃ゆい味の食べ物とは1番いい仕事をします。やっぱり実力者同士が組んで初めて本当の実力が出せるみたいな理屈ですよね。クリーム、バター、マヨネーズなどなど、ハイカラ気取りで人殺しのカロリーとその他栄養素をぶっこんでくるような料理を、絶対忘れさせないぞという執念を感じるような味にしてくれる、仕事人の明太子のことが私は大好きです。

 

で、そんな危ないヤツのくせに最高の仕事をする、人間だったらもう信じられないくらいモテているので食べ物であって逆に良かったであろう明太子が、地球上に存在する人類の多くを支え育んできた小麦粉の塊であるパンと合体、しかも食べ応えのあるフランスパンとなんて、初めて生み出した人が魔女裁判にかけられないか心配になってしまう。フランスパンは得てして大きく、かつ歯応えがあるものも多いため、お腹いっぱいになるための下地としては完璧なのです。加えて白米の時点で穀物に合うと証明されていた明太子、それに最高のパートナーであるバターとクリームがサポートメンバーとして入っていることが基本なので、そりゃ日本一のバンドが組めるわ、武道館東京ドーム間違いなし、ギネス記録にだって載れちゃうよ。

あとは明太子フランスにも、2通りの形状がありますよね。パンに切り込みを入れて明太子を挟み込む母性型と、パンの上にそのまま乗っかってもらう服従型。私は基本母性型の方が好き。なぜならば、服従側は服従しているパン側の魅力がそれなりにないと、どちらも倒れてしまうことが多いから。上下関係よりも、やはり共存の方が、安定しやすいのかもしれません。
母性型(この書き方結構キモいですね)は、親切なパン屋さんの手によっていくつか切れ目が入っていることが多く、それを切り分けたのち、さらにパンの切れ込みに沿って半分に割って、後生大事に食べるのが好きです。明太子クリーム、この量が多い時はもう片面に盛り盛りになっちゃって、カナッペですか?という状態になることがあり、気分が良くなる。薄い場合でも、食べやすいので何の文句もありません。

パン本体、明太子の位置、明太子の状態と各パン屋が己の個性を出す部分が多いのも大好きポイント。みんな違ってみんないいのはもう日本の常識なんですよ。戦後75年経ち、全体主義は影を潜め、出る杭は打たれず、それぞれの素敵な所を愛し、受け止め、伸ばしていく時代です。パンが超硬いのも、割と辛めの明太子を使っているのも、気持ちがこもっていれば全て愛すべき個性です。

 

一つ、忘れられない明太子フランスがあります。Antendoというパン屋チェーン、関東の駅ナカとかによく入っているお店なんですが、ここの明太子フランス、これが本当に大好きで、地元の駅で母と買っては自宅で狂喜しながら食べていました。特徴は手で簡単にちぎれる柔らかい生地、比較的細長く扁平な形状、そしてカルピスバターを使った明太子クリーム。これが本当にもう絶品でして。クリームの量自体はすごく多いわけではなく、むしろ薄らしていて、柔らかめのパンに染み込んでいるな〜くらいの見た目なのに、味が濃くて濃くて。ギュ!っとしたバターと明太子の塩味、噛みしめてじゅわじゅわ止まらない味の流れ、鼻に飛び込む芳醇な香りと、もう夢のような、フランスパンというには少し邪道なのかもしれないけれど、優しく力強い、そんな温かみのこもった最高の明太子フランスでした。この明太子フランスは、1年半ほど前から店頭より姿を消し始め、今はもう見ることができません。高すぎない価格設定を思い出すと、カルピスバターの予算感が合わなかったのかな、とか、私が思うほど売れてなかったのかな、とか、いろんなことを考えながら、あの味を振り返ってしまいます。全然、思い切った値上げをしてくれてもかまわなかったし、ずっと買い続けると誓っていたのです。まさか別れの日が来るだなんて思っていませんでした。今でも、あの味、食感、そして白と金色のレースリボンで結ばれた袋に包まれた、細長く持ちやすい、おいしい姿を忘れることができません。一生私の心の中に残るでしょう。

 

p.s. 明太子系のパンは当然全部好きで、明太子とチーズを挟んだ柔らかめのパンとか、じゃがいもと挟んで焼いたロールパンとか、もう書いてるだけでお腹が空いてくるんですが、いずれにしても明太子フランスのバリエーション豊かさと世間への広まり方にはまだ敵わないかなと思い、明太子フランスに特化してみました。
あと、タラコと明太子の違いは、正直あんまり気にしていないです。辛い方が個人的には好みです。

 

以上

2. 三島食品「ゆかり」

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 前回の香水からの、この高低差。


食事は日常でもあり非日常でもあると思いますが、私にとってふりかけという食品は非常に日常寄りです。
気が付いたら、家にあったし。知らない間に、また増えてる。
定番品から変わり種まで、ただただ「白米をよりおいしくする」というのがふりかけの崇高な目的です。
おかずが乏しい日の最後の一口に。ご飯に彩りを与えるために。そしてまた、給食やお弁当といった、子供時代の味の記憶を底支えしています。


その中でこの「ゆかり」は、生まれた瞬間から摂取させられてたのか?レベルに気が付いたら身近にありました。
これ、私にとっては呼吸レベルに当たり前の食品だったんですけど、知らない人もいるのでしょうから説明しますと、シンプルに赤シソのふりかけです。
ただただ、赤シソ。酸味としょっぱさ。それが全て。
特筆すべきはパッケージと同じ、きれいなきれいな紫色です。お米の湿気で、乾いたゆかりが少しずつ開いて張り付いて、薄紫に色づきます。混ぜ込んでおにぎりにしてもよいし、お米とお米のブロックの間に挟んで、二段ゆかりご飯にしてもまたよい。
とにかく酸っぱいものは飽きにくいが私の持論ですが、爽やかさと塩気が、その持論を裏付けてくれます。
たぶん無限に食べられるんじゃないか。胃の中から知らないどこかへゆかり専用道がつながっていそうな気すらする。

 

母は子供のころの運動会やピクニックだけでなく、中高6年間のお昼ご飯にお弁当を作ってくれていました。まじ感謝。
記憶の中にあるのはいつもこの紫色です。歯に張り付いた紫を落とすために口をゆすぎまくった、中高の薄汚い水道を思い出します。
あまりに入っているのが当然なものだったので、社会人になってお弁当を作り始めてから、自分でも困ったらゆかりご飯を全力で詰めてお弁当を作っていました。
(残念ながら社会人弁当作り生活は即断念しましたので多くは語りません)

 

そもそも、最近まで「ゆかり」は赤シソふりかけ全般を指すものだと思っていたのですが、「ゆかり」は三島食品株式会社の登録商標なのだそうです。
®つけなきゃダメかな。めんどくさいので今回は見逃してください。
まずはいったん、今回画像も引用させていただいた三島食品株式会社のHPを貼らせていただきます。

 

www.mishima.co.jp

 

この会社がすげえんだ。以下延々と記述いたします。

 

まずなぜこんなにも定着しているかというと、なんと国内赤シソふりかけシェアの9割が三島食品のゆかりなのだそう。とんでもない。
そりゃ、「ゆかり」は「ゆかり」ですよね。ていうか言われてみればほかに食べたことない。これってすごいことですよ!
1970年から販売し始めて、今年で50年。半世紀売り続けて、今でもトップ張ってるっていうかっこよさ。
三島食品がどんだけゆかり愛に溢れているかというと、三島食品のHPの上部、一番左の「会社情報」の次が「ゆかり®について」ですよ。「商品ラインナップ」を押しのけての第2位。若干、ほかの商品がかわいそう。

 

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なんか、すごいキャンペーンやってる。ゆかりアイロンビーズ超ほしい。

今気づいたのですが、50周年キャンペーンで、ばんばかゆかりグッズを作ったみたいです。
ゆかりマスキングテープや、ゆかりエプロン。なんじゃそりゃ。ありえない、欲しすぎる。なぜもっと早く気付かなかったのか大後悔です。
倍率が上がるのであんまり教えたくないのですが、特設ページを共有しちゃいます。

 

ほかにも三島食品さんのゆかり愛を表すエピソードとしては、ゆかりはなぜかペン型のサイズで売ってるのがあるんですが、これは社長さんかどなたかがゆかりを持ち歩きまくってて、持ち運びに便利なサイズってことで開発したそう。ゆかり持ち歩くシチュエーション、何?いやでも欲しいかも。
さらに、団体向けに工場見学ツアーもやってるのですが、なんと、バーチャル工場見学もやっています。しかもVRにも対応可能。本当に、どこまでも愛の深い会社…

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360°各工程を見られる素晴らしい仕組み。

ところどころ宝箱が置いてあって、開くと「50周年記念」のキーワードの一文字ずつが見つかります。それだけですが、その愛がたまらない。
工場の見学ツアーは今年いっぱいお休みするようですが、早く子供たちがゆかりの素晴らしさを見学で知る日が来ることを祈っています。(ちなみに10人以上で予約できるようなので、私はいつか行くことを諦めていません。)

 

ところで、「ゆかり」ってなんでゆかりって名前なの?っていう話なんですが、これはなんと古今和歌集が関係しているそう。掘れば掘るほど深いゆかり。

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「むらさき草が一本咲いている。と言う(縁)だけで武蔵野の草花が、皆愛おしく(身近に)感じてしまう…
「縁」のあるもの、「ゆかり」のあるものとして、むらさき草が詠われているところから、「ゆかり(縁)の色」は、「紫色」を言うようになりました。

現在、人の名前で『紫子』と書いて「ゆかりこ」と読む方もおられます。
三島食品株式会社では、赤しその名前を考えたとき、商品の色が紫色であることと、皆様との「ご縁」を大切にしたいとの思いから、「ゆかり」と命名しました。

 

引用:三島食品ホームページ

 

想像もつかなかった。
少々話はそれますが、私の住んでいる武蔵野市の市歌には、「ゆかり」というワードが出てきます。
生きてると、こういう繋がりみたいなのが見つかるから、毎日しょうもないことばかり考えていても楽しいんですよね。

 

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 引用:武蔵野市ホームページ(http://www.city.musashino.lg.jp/shisei_joho/musashino_profile/1003294.html)

 

ちなみに、三島食品、ゆかりの派生商品はゆかりチューハイ(超美味しかった)が有名かと思いますが、ほかにもリキュールとかダックワーズとか結構好き勝手作ってるようです。
そして、なんとゆかりの姉妹商品も出ています。一時期ネットでバズったようですが、それがこちらのお二つ。

 

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姉妹感強いな。

ほかにも「うめこ」なる商品も出ているそう。みんなかわいいですね。素敵。

 

本当に延々と書いてしまいましたが、シンプルにこれが愛の大きさです。

三島食品よ、永遠なれ。

歯が紫色になってでも食べ続けたい。

 

 

雑記

さんざんハイテンションでふりかけへの愛を語りつくしましたが、最近の出来事と思い出を。

 

先月くらいにようやく運転免許を取得したので、父に家の車の運転を申し出たら、やんわり断られた。

まあそりゃ1年はハンドル握ってないしね。心中お察しいたします。

昨年の入社してすぐくらいのころ、教習期限がぎりぎりだったので、仕事が終わり次第ダッシュで電車に飛び乗って、教習所までコトコト電車で向かって、スーツのまま学科教習を受けていた。

当時、結構嫌なことばかり考えてしまう時期で、ずっと自分を責めたりいろいろを悔いたりで心も頭も忙しくなっていて、

一度、学科教習を受けながら急に涙が止まらなくなった日があった。

夕方の薄暗い教室で、二段階目の教習でほとんど人がいない中、リクルートスーツ姿でボタボタ泣いてる女を、講師も、同じ教室の人たちも、見事にスルーしてくれた。

マジで地獄みたいな空気だったと思う。ひた長い50分だった。

 

という湿っぽい記憶を、少しよれた教科本を見て、ふと思い出した。

1. 香水「VALENTINO VALENTINA」

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香水に心を囚われて、もはや何年になるのでしょう。

子供の頃に初めて母からもらったGIVENCHYの「プチサンボン」や、勝手に母の棚から数滴拝借したHERMESの「ナイルの庭」等、香水との思い出は数々。香りは人の記憶と強く結びつくといった話はよく聞きますが、まさしくその通りであるとかねてより確信しています。

また、香水はハイブランドでも手出ししやすいので、最上のものに比較的すぐにアプローチできることも好きな理由の一つです。

大女優からご近所さんまで、皆が同じ香りを共有できるなんて素晴らしいと思います。

他人の香水もついつい気になってしまうので、事あるごとに人様の香水事情ヒアリングに走りがちです。

道ですれ違う、見知らぬ人の香りから思い出を引きずり出されるのも悪くはありません。

 

さて、こちらの香水ですが、ごく簡単な一言で表すなら「セクシー」っていう感じです。

おハイソなVALENTINOのサイトからは、何故かフレグランスのページ自体が見つけられなかったので、発売当初の記事よりコメントを引用します。

 

 「VALENTINA」は、ヴァレンティノ・ウーマンの女性らしさと個性を象徴する新しい香り。2人の調香師オリビエ・クリスプアルベルト・モリヤスにより、官能的で自由気ままな美と、型にはまらないフェミニティからインスパイアされた現代のプリンセスの魅力がボトルに閉じ込められた。フレッシュなベルガモットにホワイトトリュフが大胆に香るトップノートにワイルドストロベリーナチュラルに漂い、オレンジブロッサム、チュベローズ、ジャスミンが輝く美を表現。最後にはシダーウッドがノーブルに、アンバーはセンシュアルに香り、印象的なコントラストを演出する。クラシックかつモダンな香水は、フェミニンな淡いピンク色。ホワイト・アイボリー・ヌードの3つの花が添えられたラウンドシェイプのクリスタルボトルに詰められている。

(https://www.fashionsnap.com/article/2012-01-12/valentino-fragrance/)

 

 

カタカナが多くて私は途中で真剣に読むのを諦めました。

要は、現代の女性向けの香水ってことだと思うのですが、付けてみての所感は「甘く心に残る香り」というところです。

ホワイトトリュフやワイルドストロベリーといった見ただけで美味しそうな香りから、消えざまの落ちつくような香りまで、私の心を離さないのがこの香水です。

初めての出会いは母が何気なくくれたサンプルだったのですが、ひと嗅ぎで「なんか違う」と感じ、無くなると同時に大学生当時のなけなしのお金で購入しました。(だいたい50mlで定価1万円弱。大学生にとっては飲み会3回分の大金)

周りからの評判は正直あまりよろしくありません。臭いという評価もぼちぼち、、たしかに激しい香りではあるかもしれません。レビューサイトの評判も低めです。こんなに好きなのに。

それでも私にとってはしばらくはこの香水が四番打者です。楽しみな外出や寝る前の景気づけにプッシュすると、すぐ自分の機嫌が取れる便利グッズです。

何よりもブリリアントなこのボトル!持ち歩きに全く適さない外側のモダンな花と淡いピンク色の透明な液、眺めるだけでわりと幸福です。

決していい夢にばかり連れて行ってくれる香水ではありませんが、私にとってはお守りみたいなものです。今のところは、地上から枯れ果てるまで買うと思います。

 

 

冒頭画像引用:https://www.fragrantica.com/perfume/Valentino/Valentina-12770.html

 

雑記

今日は大変気に入った色のワンピースを買いました。昔だったらきっと入りもしなかったであろう店で購入し、改めて加齢を感じました。自分に似合いそうな色が見つけられるようになってきて嬉しい限り。

あと先日友達から送りつけられてきたタトゥーシールを全身のそこかしこに貼り付けているのですが、家族での食事中に腕の内側に貼った薔薇を見咎められ、シールを貼っているという極めてダサい告白をさせられるハメになりました。

弟は、「ついに彫ったか、と思ったけど、まあ姉ちゃんだしな、と思っていた。」とのコメントをくれました。理解のある弟を持てて姉は幸せです。

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0. はじめに

親切なブログを目指しているので、好きなものの話をブログにしようと思った経緯を先に説明いたします。

 

テレワークという言葉には、そこはかとない昭和のバカっぽいエロを感じると、以前知人が指摘していました。

テレワーク、の接頭辞である「tele」には遠隔、や望遠、といった意味があるそうで、テレホン以外の言葉も含むらしく、使われている意味に適った言葉ではあるようです。でもなんか、ほんとそこはかとなく前時代的な香りのする言葉ですよね。BGMにWe Built This Cityかかってそうな感じ。

2020年1月、来たるべき東京オリンピックに向けて、気が狂うほど人で溢れるであろう首都東京への通勤を避けるため、出社しない働き方を標榜し、私の現在の勤め先では件のテレワークをトライアル実施。結果として「あれ、これ出社いらない?」という意識を僅かながら我々の心に植え付けたこの未来への試みは、憎たらしいウィルスにより、オリンピック延期と共に図らずしもすぐに実用化されることとなりました。

家で働く。ということは、家族を除く他者との直接の関わりを大部分絶たれることになります。仕事の中身自体は正直、今現在の私の人生ではあまり重要ではないのでどうでもいいですが、仕事の後の時間はそうではありません。私は、会社ではなく、「誰か話せる人のところ」に出勤していたのかもしれません。誰とどのように時間を共有していたか思い出せないほど、私は家族以外の誰かと日々話し、時間を埋めていたのだとようやく気づいたのが4月終わり頃。

人と人が遠隔で繋がるのは、希望だと思います。だから、直接じゃないと嫌だ、というのはわがままであることは分かります。でも、最早理屈とか言ってられません。

リモート飲みは遠くの人にもすぐ会えてお金もかからない、切ったらそのままPCの電源と照明を落とせば最悪寝られる手頃さに加え、何より隔絶された世界で他者と繋がれる素敵な一つの道筋でした。ただ、充足感や虚しさを消化できる帰り道の無い交わりは、明らかに私の精神を磨耗し、気付けば誰とも話さず、ただ布団にくるまる日が多くなっていきました。オンラインでのやり取りの僅かな時差が、とてつもない距離のように思える、そんなセンチメンタルさが呼び起こされ、概ね屍のような時間が多く過ぎました。(まじでめちゃくちゃ酒を飲んでました)

そんな中でも日は過ぎ、自分に立ち返る時間がひたすら増えていく中で、孤独に耐えるために生活を富ませようという発想にはごく自然に至りました。しかし、ここで「どうやって?」に直面します。何をすれば、私は自分の機嫌が取れるのか?何に囲まれていればこの一人の部屋は居心地が良くなるのか?なんとなく、で抱いていた何かへの愛情へ、明確な答えが欲しくなりました。

私の記憶力はかなり低いと日々自覚します。言葉が残らなければいろんなものは薄まっていきます。その遠い感覚も愛おしくはありますが、残すことの方に最近は愛を感じるので、記録しようと思い立った、以上背景になります。

 

と、大袈裟に書きましたが、シンプルに言えば私の好きなものとそれらへのコメント、あとは雑記を加えたメモ兼日記みたいなものになる予定です。

 

私の死後、棺桶に入れてもらったり、告別式を演出してもらうために使ってもらえれば本望ですが、ひとまずはこういうのが好きな人もいるんだな、程度でいきましょう。