月まで連れてって

好きなものをブログに書きます。

三日坊主と明太子フランス

もう完全に予想通りというか、非常に自然に三日坊主になっていました。

これはなんというか、いくらなんでも悔しいので、なぜ三日坊主になってしまうのか?をまずは自己分析するところから、今回の記事は進めていきたいと思います。

 

もともと自分が三日坊主の傾向がむちゃくちゃあることは小学生の頃から気づいています。小中高大、宿題1度もまともに出せず叱られ続けた人生ですし、このブログも、更新しようとして、「めんどくせーからええわ」が続いてしまいました。中には、ちょっともう酔っ払って帰ってきてそれどころじゃないとか、遊び疲れてもう即寝するから無理とか、そういうある種しょうがないかなとさっぱり割り切れる理由もありましたが、「これは少し良くなかった原因だな」と思ったものが大きく分けて2つあることに気がつきました。

その話をしていきます。

 

①自分のルールを作りすぎていた

まずは、技術面ではないですが、マインドセットに近い部分の話から始めます。

これは、私が今までに歩んできた三日坊主人生を割とカバーする理論だなと、自分で思っています。
自分ルールって、まあいろいろとあると思うんですが、例えば今回のブログで課していたものは何か思い出すと、簡単に以下が挙げられます。

・タイトルに『番号、分類、固有名詞』を入れる
・出典と画像をふんだんに入れる
・読み手を意識してきちんとオチをつけたり長めに記述する(ここは、後述する②に近い部分もあるかもしれません)

思いつく限りではこんなところですが、実際のところ、私は何かを最初に整理したり、形式を作ったり、それを変えていくようなことは割と好きな方なんだと思います。例えば、部屋の服をかけるハンガーの、この色はスカート、この色はシャツ、であったり、あとは本をジャンルごとにきっちり並べたり。最初はすごく、無意識ではありますが楽しいんだと思いますし、実際ものが整っているのを見るのは好きなので、この性質がルールづくりに生かされているのだと思います。

ただ、私はルールを守り続けるのがとても苦手なのが残念なポイントです。今日は酔っ払って帰ってきたから、シャツはかけないで寝ちゃおう。とか、後で読むからこの本はこっちに今だけ置いちゃおう。とか、そういう一時一時の“イレギュラー”を積み重ねて、少しずつルールが綻んでいきます。そして、加えて残念なのが、私が少しの綻びで、全てが嫌になってしまうこと。歪な完璧主義なのです。少しでもヒビが入ると嫌になるくせに、集中力が続かないのです。カタヌキって遊びご存知ですか?あれめちゃくちゃ苦手です。すぐ嫌になってゴミ箱行きです。

宿題なんかも、計画通りに全然進まなくて、あーもうええわ、もう間に合わん、知らん、くたばれ、という勢いで後回しにし続けていましたし、今回のブログについても、あのルールを守るのには時間が無いな、とか色々イレギュラーな理屈をつけて、ここまで時間がかかりました。(その傾向は所謂ADHDと呼ばれるのでは?というご指摘、おそらく正しいと思いますが、今回はひとまず目を瞑ってください。私の障害については個性と思わせてください)

 

②他人からどう思われるかを気にしていた

しょうもない話ですが、こちらは自分の感情面の話です。

ブログみたいなものを書いている時点で、誰かは必ず批判しますし、誰かにバカにされることも当然なのですが、私の高く聳え立つ、醜悪なプライド山脈が、悪意が踏み入れてくるのを許しませんでした。これは別にブログに限らないことなのです。何かを発信する限りは、誰しもそうですし、なんなら生きているだけで同じようなマイナスの言葉や感情を向けられる機会とは無縁では過ごせません。当然のように、あらゆる人にそれぞれの好みや人となりがあるわけですから、こんな至極当たり前のことは今更議論に値しないと思っています。

しかし、それを理解してなお受け入れる度量がまだまだ私には足りていなかったのです。なるべく、くだらないと思う人が少ない、そんな言葉を書きたい、と思ってしまう自分が今もいます。文章は上手く書こうとするな、といろいろな指南書であったり、著名人のコメントで拝見しますが、その基本ができていなかったのです。私は自分の心の一部を守るために、また別の自分の心の一部を犠牲にしていました。プライドのために自由を売っているわけです。

2020年は、自分のことをただひたすら考える時間がたくさん持てました。目を逸らしていた部分の傷は非常にグロテスクで、直視するには痛みをたくさん伴いました。(蓮コラみたいなものですね) かなり、辛い時期が長かったです。今も続いていますし、これはそういう波なのだと思います。いろんな理由や原因はありますが、そのうちの一つが己のプライドだったと思います。この古く醜い傷に向き合って、傷から目をそらしていくこと以外、この傷の痛みを忘れる術はないと気づきました。見てしまうから、そして弄ってしまうから、傷は治らないわけです。私は傷がある状態を守り続けていました。かさぶたを剥がし続け、血塗れの傷跡を見て、蹲ってどこにも行けない状態に安寧を覚えていました。これが、プライドを守り続けていた、自分の状態であり、その一部が表出していたのが、「他人から見下されるような文章を残したくない」という気持ちのもと、放置し続けたこのブログなんだろうなと思います。

 

①②を踏まえて、結論から言えば、もう私は色々なことをどうでも良く思えるようになりたくなったのです。まだなりきれていないけど、その身軽さに憧れているのです。そして、それを大義名分じみた何も考えていない状態で、さっさと初めてしまいたい。なぜならば人生の時間が短い。少しずつ、強制処置を取っていかないと、忘れっぽい私は言葉を感情を忘れていきます。耐えられません。私はもったいない主義なのです。貧乏性とも言います。生まれた言葉はなるべく全て残しておきたい。誰かに伝えるか自分の中にとどめるかは別として、この感情だけは多分本物です。

②を書いた下に、私は「お目汚しをして失礼いたしました」という文を添えようと思いました。書いてから数秒して、「こいつまた読者に配慮しやがったな」と思ってムカついて消しました。誰か読んでるかも分からんくせに。意味わからんかっこつけすんな。ダサいわ。きっとこういう文章もいずれ恥ずかしいと思う時が来るんだろうな。特にこういう独白のような文章は、恥じらいを強く生みます。

でももうどうでもいいと、自分に思わせます。いつか見返して「そんなこともあったなあ」と思えるように、傷跡からは目を逸らし続けます。その手段は書くこと!何も気にせず、思うがまま書くこと!読み返して恥じらうときのことはどうでもいい、もしかしたらこんな長々書いといてまた途絶えるかもしれないし、私は適宜居もしない読者に気を使うかもしれないけど、気にしていられません。気のままに、好きに、書くだけです。生きているのが辛かったから。言葉が好きだから。好きなもののことが、とにかく好きだから。

というわけで、「私」という言葉を何回使ったか分からない独りよがりの自己分析は終わり、ここから先もずっと、好き勝手ルールご無用天上天下唯我独尊ガチガチ主観の、好きなものについての文章を書きます。どんな文章でも、自分の遺したものとして、苦しみつつ愛していきたいなという言葉で締めて、今日は私の大好きな明太子フランスの話を書いていきたいと思います。

 

 

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パン界は広く、深く、素人が好き勝手いろいろ言うもんではないはずなんですが、誰がなんと言っても明太子フランスをしょっぱパン選手権では絶対シード枠に入れたい。(他のシード枠ももちろん考えたい、コロッケパンとか、チーズパンとか)

まずもって明太子という食品は、万能性が凄すぎる。魚卵を唐辛子とかいろんなものと混ぜてなんかしばらく漬け込んで〜とか、手間がかかってるのかもわからんけど、字面だけでは明らかに珍味寄り。背後に見えるはカップ酒。なのに、かなり美味しいものヒエラルキーで上位に据えられているし、何よりコラボレーション能力がとんでもない。そもそもの地力が強いのは言うまでもなく、ピリ辛という刺激に塩分というDNAを震わせる栄養素がしこたまぶち込まれた魚卵が、米に合わないわけがない。(酒に合うものは米に合うというのは原料が同じことから火を見るよりも明らかです)

そもそも魚卵って、とんでもなくないですか?各生物の命を蔑ろにするつもりはないですが、あんなにたくさんの生命が口に入ることって、想像つかなくないですか?ちりめんじゃこですら、うわ〜生命がたくさんと思う中で、スケトウダラ、あんな大きいサイズになるはずだった可能性をぜ〜んぶ一気に、数えられないくらい食べちゃいます!って、もう進撃の巨人ティーカッププードルに見えちゃうくらい本当はえげつないことなのだと思う。魚卵を食べた時のあのよく分からない、「普通の食べ物ではないな」という感触と、後からやってくる尿酸値の上昇という罰、これは生命を蹂躙し尽くしているという背徳感を帯びた経験にしか、なかなか結びつかないなと思う。なお、この理屈は一寸の虫にも五分の魂理論がベースになっています。

こんな激バッドな出自のくせに、明太子はハローキティよりコラボが上手い。特に濃ゆい味の食べ物とは1番いい仕事をします。やっぱり実力者同士が組んで初めて本当の実力が出せるみたいな理屈ですよね。クリーム、バター、マヨネーズなどなど、ハイカラ気取りで人殺しのカロリーとその他栄養素をぶっこんでくるような料理を、絶対忘れさせないぞという執念を感じるような味にしてくれる、仕事人の明太子のことが私は大好きです。

 

で、そんな危ないヤツのくせに最高の仕事をする、人間だったらもう信じられないくらいモテているので食べ物であって逆に良かったであろう明太子が、地球上に存在する人類の多くを支え育んできた小麦粉の塊であるパンと合体、しかも食べ応えのあるフランスパンとなんて、初めて生み出した人が魔女裁判にかけられないか心配になってしまう。フランスパンは得てして大きく、かつ歯応えがあるものも多いため、お腹いっぱいになるための下地としては完璧なのです。加えて白米の時点で穀物に合うと証明されていた明太子、それに最高のパートナーであるバターとクリームがサポートメンバーとして入っていることが基本なので、そりゃ日本一のバンドが組めるわ、武道館東京ドーム間違いなし、ギネス記録にだって載れちゃうよ。

あとは明太子フランスにも、2通りの形状がありますよね。パンに切り込みを入れて明太子を挟み込む母性型と、パンの上にそのまま乗っかってもらう服従型。私は基本母性型の方が好き。なぜならば、服従側は服従しているパン側の魅力がそれなりにないと、どちらも倒れてしまうことが多いから。上下関係よりも、やはり共存の方が、安定しやすいのかもしれません。
母性型(この書き方結構キモいですね)は、親切なパン屋さんの手によっていくつか切れ目が入っていることが多く、それを切り分けたのち、さらにパンの切れ込みに沿って半分に割って、後生大事に食べるのが好きです。明太子クリーム、この量が多い時はもう片面に盛り盛りになっちゃって、カナッペですか?という状態になることがあり、気分が良くなる。薄い場合でも、食べやすいので何の文句もありません。

パン本体、明太子の位置、明太子の状態と各パン屋が己の個性を出す部分が多いのも大好きポイント。みんな違ってみんないいのはもう日本の常識なんですよ。戦後75年経ち、全体主義は影を潜め、出る杭は打たれず、それぞれの素敵な所を愛し、受け止め、伸ばしていく時代です。パンが超硬いのも、割と辛めの明太子を使っているのも、気持ちがこもっていれば全て愛すべき個性です。

 

一つ、忘れられない明太子フランスがあります。Antendoというパン屋チェーン、関東の駅ナカとかによく入っているお店なんですが、ここの明太子フランス、これが本当に大好きで、地元の駅で母と買っては自宅で狂喜しながら食べていました。特徴は手で簡単にちぎれる柔らかい生地、比較的細長く扁平な形状、そしてカルピスバターを使った明太子クリーム。これが本当にもう絶品でして。クリームの量自体はすごく多いわけではなく、むしろ薄らしていて、柔らかめのパンに染み込んでいるな〜くらいの見た目なのに、味が濃くて濃くて。ギュ!っとしたバターと明太子の塩味、噛みしめてじゅわじゅわ止まらない味の流れ、鼻に飛び込む芳醇な香りと、もう夢のような、フランスパンというには少し邪道なのかもしれないけれど、優しく力強い、そんな温かみのこもった最高の明太子フランスでした。この明太子フランスは、1年半ほど前から店頭より姿を消し始め、今はもう見ることができません。高すぎない価格設定を思い出すと、カルピスバターの予算感が合わなかったのかな、とか、私が思うほど売れてなかったのかな、とか、いろんなことを考えながら、あの味を振り返ってしまいます。全然、思い切った値上げをしてくれてもかまわなかったし、ずっと買い続けると誓っていたのです。まさか別れの日が来るだなんて思っていませんでした。今でも、あの味、食感、そして白と金色のレースリボンで結ばれた袋に包まれた、細長く持ちやすい、おいしい姿を忘れることができません。一生私の心の中に残るでしょう。

 

p.s. 明太子系のパンは当然全部好きで、明太子とチーズを挟んだ柔らかめのパンとか、じゃがいもと挟んで焼いたロールパンとか、もう書いてるだけでお腹が空いてくるんですが、いずれにしても明太子フランスのバリエーション豊かさと世間への広まり方にはまだ敵わないかなと思い、明太子フランスに特化してみました。
あと、タラコと明太子の違いは、正直あんまり気にしていないです。辛い方が個人的には好みです。

 

以上